本連盟は大正14 年(1925 年)に創立され、平成27年(2015 年)で90 周年を迎えました。
当時、朝日新聞社運動部の記者であった大石雄一郎氏(連盟初代会長)が大阪医科大学の水野祥太郎博士やその他の有識者の方々に相談のうえ創立が決定されました。
その創立の精神は、
第一に学生の自主性を尊重すること
第二に教育の一環としての課外活動の啓蒙
第三に学生アマチュアスポーツの振興
と言う理念を基本として西日本地区の学生競技スキー界の高揚を担うと言う崇高なものでした。そして、大正15 年(1926 年)の会合において龍谷大、大阪医科大、京都薬専、大谷大、関西大、同志社大、関西学院高等部、神戸高商、彦根高商、甲南高、大阪歯科大の加盟11 校が確認されましたが、大正天皇の崩御により昭和2 年(1927 年)までのすべての催事やスポーツ競技会などが中止されたため、第1回全関西学生スキー選手権大会として神鍋スキー場において参加8 校(86 名)にて開催されたのは、昭和3 年(1928 年)2 月5 日となりました。
その後大会は昭和16 年(1941 年)の第14 回大会が雪不足で中止された以外は、昭和18 年(1943年)の第16 回大会まで順調に大会規模を拡大・発展(昭和11 年=1936 年 の第9 回大会から1 部及び2 部制に移行)していきました。その間、昭和13 年(1938 年)及び昭和14 年(1939年)の2 年にわたり甲子園球場において木製櫓のジャンプ台(30 メートルクラス)を造り、信州から貨車で雪を運び全日本ジャンプ大会甲子園大会が開催されましたが、本連盟も選手の派遣や大会運営に多大の貢献をして大会を大いに盛りあげました。
一方、組織のうえでは昭和14 年(1939 年)に全日本学生スキー連盟より全日本学生スキー選手権大会に合流してはどうかとのお奨めもあり、昭和16 年(1941 年)日本学徒体育振興会方針の下に名称はそのままにして「全日本学生スキー連盟関西支部」として木原均氏(第4 代全日本学生スキー連盟会長)の指導のもと確固たる体制を確立いたしました。 その後昭和19 年(1944 年)から昭和21 年(1946 年)までの3 年間は第二次世界大戦のため中止のやむなきにいたりましたが、昭和22 年(1947 年)15 校により第17 回大会として再開(予科大会併設)され、翌昭和23 年(1948 年)には全日本学生スキー連盟との話し合いで、全日本学生スキー選手権大会に関西大が初めて参加、昭和26 年(1951 年)より順次関西学院大、同志社大、近畿大、甲南大、大阪大などが参加するようになりました。
また昭和25 年(1950 年)の第20 回大会(神鍋)、昭和45 年(1965 年)第40 回大会(新赤倉)、昭和55 年(1975 年)第50 回大会(大山)には高松宮殿下のご臨席のもと記念大会として盛大に開催されました。
この間連盟の規模並びに質も増大して逸材高校生も入学するようになり、全日本学生スキー選手権大会において後藤(関西大)、小川(関西学院大)が優勝。国体(大館)では田中(関西学院大)、日景(関西大)が1・2 位を独占するなど、名実ともに学生スキー界での実力が認められるようになり、その後も冬季オリンピックに近大の江川、熊谷、木村、古川、恩田、北村、駒村、蛯沢、笠原、瀧澤の10 選手が出場するなど、幾多の名選手を輩出してまいりました。
また一方では現在では当たり前のこととは言え、学生スキー界で初めてとなる女子部の創設と併せて女性理事の採用を決め、昭和41 年(1966 年)の第36 回大会において神戸女学院大、甲南女子大、甲南大、同志社大、立命館大、光華女子大、大阪府立大の7校参加のもと女子部の大会が始まりました。
これを契機に年々加盟校も増加の一途をたどる一方で競技種目の拡充も図った結果、平成7 年(1995 年)当時には男子1 部・2 部・3 部計57 校、女子1 部・2 部計59 校の合計116 校と選手数2, 000 名近い連盟へと発展いたしました。
その後、平成16 年(2004 年)第74 回大会からアルペン競技はSAJ のB 級公認レースとなり、ポイントを取得できるようになりました。平成22 年(2010 年)第80 回記念大会を機にクロスカントリー競技にスプリント種目を追加、またアルペン競技ではチャンピオン大会として、GSL及びSL を追加して競技出場枠の拡大を図りました。ノルディック・コンバインド種目においても従来のグンダーセン方式に加えてマススタート方式を追加しています。
また春・秋の季節外競技の充実、サマージャンプ合宿と大会の継続実施、天橋立ローラースキー大会への積極的参加、春秋の季節外競技大会や冬季大会等においてOB・OG 戦を実施するなど、スキー競技の発展と競技力向上を目指してきています。しかしながら昨今の少子化という社会現象による加盟校数の減少や休部校の増加による登録選手数の減少に対する施策が必須となってきています。
今後については連盟創成期の先見性と進取の精神を尊び、全日本学生スキー連盟との連携を深め、さらなる努力により歴史を継続していきたいと考えています。当連盟を取り巻く環境の変化や競技スポーツの多様化により、スキー競技人口の減少化の懸念はあるものの、中部地区以西の大学加盟活動の強化推進や、より魅力のある大会運営を目指すことによって、全関西学生スキー競技界のさらなる向上と連盟100 年に向けての新たな一歩としたいものです。
平成27年(2015年)10月3日発行 「90年史~この10年の歩み そして100年に向けての始まり~」より抜粋
就任任期 | 名誉会長 | 会長 | 副会長 | 理事長 |
---|---|---|---|---|
大正14 年 (1925) | 連盟創設 この間大石雄一郎・浅野泰秀両氏を中心に運営 | |||
昭和16年 4月(1941) | 木原 均氏(全日本スキー連盟第四代会長)が関西支部長に就任 | |||
昭和22年 4月(1947) | 大石 雄一郎 | 浅野 泰秀 | ||
昭和25年 4月(1950) | 大石 雄一郎 | 浅野 泰秀 | 鈴木 治雄 | |
昭和37年 4月(1962) | 大石 雄一郎 | 浅野 泰秀 | 口村 正二 | |
昭和38年 4月(1963) | 大石 雄一郎 | 浅野 泰秀 | 倉敷 千稔 | |
昭和39年 4月(1964) | 大石 雄一郎 | 浅野 泰秀・口村 正二 | 倉敷 千稔 | |
昭和41年 4月(1966) | 大石 雄一郎 | 浅野 泰秀・口村 正二・岡崎 晃 | 倉敷 千稔 | |
昭和43年 4月(1968) | 大石 雄一郎 | 浅野 泰秀 | 口村 正二・岡崎 晃・和田 晋太郎 | 倉敷 千稔 |
昭和51年 4月(1976) | 大石 雄一郎 | 浅野 泰秀 | 口村 正二・和田 晋太郎・倉敷 千稔 | 浅野 泰一 |
昭和63年 4月(1988) | 浅野 泰秀 | 口村 正二 | 和田 晋太郎・倉敷 千稔・浅野 泰一 | 高相 元久 |
平成 2年 4月(1990) | 浅野 泰秀 | 和田 晋太郎 | 浅野 泰一・加藤 篤・伊藤 雅生 | 高相 元久 |
平成 2年10月(1990) | 和田 晋太郎 | 加藤 篤 | 浅野 泰一・伊藤 雅生 | 高相 元久 |
平成 4年 4月(1992) | 和田 晋太郎 | 加藤 篤 | 浅野 泰一・伊藤 雅生・笠野 輝次 | 生和 博教 |
平成 5年12月(1993) | 和田 晋太郎 | 倉敷 千稔 | 浅野 泰一・伊藤 雅生・笠野 輝次 | 生和 博教 |
平成 8年 4月(1996) | 和田 晋太郎 | 倉敷 千稔 | 浅野 泰一・伊藤 雅生・笠野 輝次 | 鶴田 武比古 |
平成14年 4月(2002) | 和田 晋太郎 | 倉敷 千稔 | 浅野 泰一・伊藤 雅生・笠野 輝次 | 高橋 光二 |
平成20年 5月(2008) | 倉敷 千稔 | 浅野 泰一 | 笠野 輝次・松田 暉・中川 正明 | 高橋 光二 |
平成24年 5月(2012) | 倉敷 千稔 | 浅野 泰一 | 笠野 輝次・松田 暉・高橋 光二 | 新井 潤 |
平成26年 5月(2014) | 倉敷 千稔 | 松田 暉 | 笠野 輝次・高橋 光二 | 新井 潤 |
平成28年 5月(2016) | 倉敷 千稔 | 松田 暉 | 高橋 光二・永田 隆子 | 真目 祐治 |
令和 2年 9月(2020) | 永田 隆子 | 高橋 光二・渡辺 正浩・築柴 誠 | 真目 祐治 | |
令和 6年 5月(2024) | 築柴 誠 | 渡辺 正浩 | 真目 祐治 | |